会社の定年はどうして生まれたのか。 108

isikawanokinsan2007-03-18

三月の年度末を向かえ、いよいよ日本の会社では“人事異動の季節”である。私が所属する趣味の会でも、今年度の総括や来年度の方針、世話人の交代が話し合われている。今日もその事で歴史研究会の会合の後、先輩と少し話し合った。


この三月は団塊の世代に属する多くの退職する人がでる。自治体は今になって、退職金で大慌てであると報じられている。ところでこの会社の定年制は一体いつ頃から出来たのか? 昔、江戸時代などではあったのか少し調べてみた。(ひまなオヤジである・・・)


江戸時代では明確なものは見当たらない、文献では明治に入って旧日本軍で現役の定年制が設けられた事が初めて登場する。 明治の終わりには海軍工廠(こうしょう)で50歳を定年と規定されている。その後、だんだん広まっていき、公務員そして民間の会社へと採用されるようになったようだ。


1930年代から急速に企業に広まり、1981年に55歳が今の60歳となり今に至ったようである。 これがさらに長寿化・高齢化社会と共に1994年制定された65歳までの延長がなされようとしている。


しかし近畿地方の一部などでは古くから、60歳になると村の寄り合いや農村などの共同で行う作業を行う“村つとめ役”を跡取り息子にゆずって村の運営から離れ隠居する風習が伝統としてあり、その後は氏神様の守る役霜月祭りの世話など)に回る制度が残っているところもある。これも一種の定年制である。


世代交代と村役からの引退と、そして新しい神社の祭りの役わりとがうまく老若で分担された制度で、企業の定年とは違って単に世代交代だけでなく若い人達を育てる機能がしっかり村で出来ているところがなかなかすばらしいと思った。


いずれにしても、今、会社ではサラリーマンの関心事“人事異動”が行われる時期できっとそわそわ落ち着かないだろう。何故か現役時代が想い出される


★定年についてを知るHP http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%B9%B4


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★くつろぎの広場
・ほめられて、ご馳走になって、とばされる
・石の上、三年経てば、次の石
・頑張れよ、無理するなよ、休むなよ

                      (平成サラリーマン川柳より抜粋)
★歳時記
・紅梅や、見ぬ恋つくる、玉すだれ  松尾芭蕉



☆金沢卯辰山の入り口にある若い人の像 (撮影:3月17日)

金沢の昔の風習“浅野川七つ橋渡り”を体験して 107

isikawanokinsan2007-03-17

金沢には珍しい風習がある。以前聞いた事はあるが、珍しいし面白いと思って一度自分で体験する為今日はその行事参加してみた。それは金沢市でお彼岸の中日(春・秋分の日など)の深夜に行われる浅野川七つ橋渡り”の行事で今日は体験プレイベントである。今日はその少し変わった習慣と実際どうであったのか紹介する事ににする。


金沢を代表する川と言えば金沢城を中心として南を流れる犀川と北を流れる浅野川であり共に“おとこ川・おんな川”として知られる。近くには共に“寺町や東山寺院群”があり、その川べりには片や文豪室生犀星もう片方の浅野川には“徳田秋声”・“泉鏡花が愛したところとして地元ではよく知られている。この中で浅野川には面白い風習が残っており、この川にかかる橋を渡るのが“七つ橋渡り”であるが、これが少し変わっている。


まず参加する人は
①白い新しい下着をつけこれに名前、生年月日書く。
②参加は一人でも、連れでも良い。
③川の上より下へ、これに架かる“七つの橋”を渡り、同じ道は通らない。
④無言(しゃべってはならない)で渡り、渡り始めと終わりには合掌する。
⑤歩いている最中は無言で決して後ろを振り返らないこと。
⑤終わったら、使った下着を洗い、乾燥させ紙に包み水引を掛けてしまっておく。
⑥「死んだらお棺の中へ、紙に包み水引掛けの下着を入れてほしい」と頼んでおく。

おおよそ以上だがそのいわれは
「長患いや中風にならないように」
「歳をとり、下の世話にならないように」
「寝たきりになり、子供や嫁さんの世話にならないように」

との願いが込めらていると聞いた。


以前私のブログでも若干触れたが、もともと仏教では川は“あの世”と”この世”を分ける境と信じられている。“三途の川”とよく言われ、人が亡くなった時の通夜の習慣に関係する。したがってこの風習も同じように、“黄泉の国”(よみのくに=あの世)と現世とを行き来し、一度死んで戻って来るのであり、再び新しい自分に生まれ変わる事を意味しているのであろう。 歩く最初と最後に近くのお寺にお参りし、報告とお礼をする。


それにしても時々小雪のちらつく寒い中大変な多くの参加者であった。年配の女性が多かったが、男性も比較的若い人もいた。金沢の観光ボランティアガイド『まいどさん』の案内で10人が一つのグループとして回ったが、私はガイドの研修も兼ね一足早く体験した。今日は朝10時スタートであったが、本番はまもなく来る彼岸の中日(3/21 春分の日)の深夜である。最近は観光バスなどでもかなり来るらしい。


出発にあたり、白い下着を用意してない人には、今日は関係者が作った白い紙で折った着物が手渡され、私も持って帰った。


今日夜は我が家では、少し遅れたホワイトデーになり、妻と息子夫婦に私がへそくりで食事をご馳走する羽目になった。何とも高くついたチョコレートである。居酒屋に向かう車の中で、今日の体験ともらった白い紙人形の着物の話をし、私が死んだら自分のお棺の中へ入れるう頼んだら。まったく相手にされず、あきれはてて一笑にふされた。(またも極楽ボケオヤジが・・・)


金沢市観光協会HP http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/

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★くつろぎの広場
・入院の、部長を見舞う、あみだくじ
・会議中、夢の中まで、あくびする
・役員会、肩書きなければ、老人会

                 (サラリーマン川柳
★歳時記
・三月や、冬の景色の、桑一本 (丈 草)







金沢市内を流れる浅野川(女川)にかかる橋と主計町(かずえまち)茶屋街 (撮影:3月17日午前)

おわら風の盆と坂の町、越中八尾を訪ねて 106  

isikawanokinsan2007-03-16

朝、メールや電話で早めに用事を済ませ、今日は地元観光協会の人達と“風の盆”“おはら節”で知られる越中八尾(えっちゅうやつお)に『視察研修』に出かけた。


毎年九月に行われ、あの独特な“胡弓の音”と編み笠の着流し姿で、三日三晩踊り明かす全国的にも知られるおわら風の盆を私は最近見たことが無い。と言うのはあまりの人の多さで、車の渋滞がひどいと聞いているからである。


今日は車で北陸自動車道を通り十時過ぎに越中八尾観光会館”に着いた。着くとすぐこの町の観光協会の若い事務局長とそれぞれが名刺交換。その後すぐに八尾町(合併し富山市)の現状や観光事業への取り組み・体制などの説明があった。


風の盆が開催されている期間、狭いこの町にはたった三日間位で約30万人近い人が集まるがである。それはこの地域の人たちみんなが、このイベントを本当に自分達の町のものとして楽しんでいるからで、この期間は県外に出ている人も地元にかなり帰ると聞く。ここまでになったのは地元の観光協会はじめ町を愛する有志の人の影の努力であろう。


若い事務局長の話を聞くと、ここは行政の力(補助金など)だけにたよることなく自分達の力で町を作って行こうとう気概が伝わってくる。三日間だけでなく通年型としてどうして観光事業を展開し、少しでも地元の経済活性化を図るか真剣に取り組んでいるようである。


話を終わり、今度は昔からおわら風の盆と並んでこの地で昔(江戸時代)からつたわる“曳山”(ひきやま:富山県文化財指定・祭り5月3日)展示館へ案内され、係りの人から歴史などいろいろ説明をして頂いた。江戸時代の加賀藩を偲ぶ伝統工芸の粋を結集し作られた豪華な山車が三台もそろっている又“風の盆の資料室”にも案内され、あの独特な物悲しさの風情を町中にかもし出す“胡弓の音”は明治以降に踊りの中に地元の愛好家により取り入れられ、そこしづつ検討を重ね、変化を繰り返しながら今の音色になったと言う。 地元の人による地道な努力の結晶でもある。


次に会館の外に出て町並みを歩いた。さほど大きいとは言えない、全国どこにでもある平凡な山間の町である。坂が多い、しかしこの坂を逆発想に『坂の町八尾』として、これを前面に押し出し観光のキャッチコピーとしているのはさすがである。


町の中は昔の町並みの風情が残り、あちこちで家の部分改装が行われている。聞くとこの町の人は自発的に自費で自分の家を昔のイメージが感じられるように景観を保っていると聞く。普通、殆ど全国の町並み景観保存には行政が補助金を出しこれを守っているケースが殆どである。しかしここは違った、『自分達の町は自分達が作る』だから『市町村合併道州制が導入されてもさほど関係ありません』との事であった。


補助金だけに頼らず“自分達の町を自分達で作る” わずかな時間であったが大変参考にもなった視察研修でもあった。『まだまだやらないといけない課題も多いとの事であったが頑張ってほしいと思う。今年九月の風の盆はできれば行ってみたいと思っている。


★八尾観光協会のHP http://www.yatsuo.net/kankou/


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★くつろぎの広場
・父さんは、どうしてボクに、似ているの
・パパとママ、結婚させた、のはおまえ
・そばにいる、夫が邪魔な、メロドラマ

                   (万能川柳より抜粋)

★歳時記
・雪の果、山の日当たる、障子かな  (増田龍雨)



☆八尾の町に建つ“おわら風の盆の像” (撮影:3月16日)

☆自前の町、越中八尾の町並み  (撮影:3月16日)

☆窓から見る、雪の残る“坂の町”越中八尾  (撮影:3月16日)

利長と大仏とコロッケの街、“高岡” 105

isikawanokinsan2007-03-15

今日は仕事で、金沢から足を伸ばし富山市との中間にある地方都市“高岡”へ出かけた。駅前の某ホテルの責任者と商談の為である。北陸自動車道から現在建設中の能越自動車道東海自動車道を経由し能登まで続く道路)の高岡ICへさらに国道8号線を北へ走ると高岡市の中心部に着いた。


前日にアポイントを取ってあったが、目的地が近づいたので念のため先方へ電話をした。先方は急な用事で時間を1時間半位後にしてほしいとの事であった。仕方が無いので、JR高岡の駅前で時間をつぶすことにした。


高岡市と言えば人口約17万人で富山市についで富山県第2の都市である。富山の西部(呉西)にあり、駅のすぐ近くににある“高岡大仏”銅製で奈良・鎌倉と並ぶ“日本三大仏”に数えられる。“銅器の町高岡”を代表するものと言える。まずここへ足を運んだ。1745年に良寛が庶民の平和を祈り造ったが、最初は木造であったらしい、たびたびの火災消失により鋳物の青銅製に変わったようだ。地上より16.5mで重量65tで見ると大変バランスがいい形の整ったしかも落ち着きのある大仏である。


この近くには高岡古城公園”(高岡城跡)もあるが今日は時間も無いので、寄らなかった。次にJR高岡駅に向かったが、この町、やけに商店街のアーケードの多い町である。それに市内中心部は神社・寺院の屋根が目に付く。それに富山市と違い道路は狭く金沢に少し似ているが、市電が走りそれにしても交通渋滞が激しい


駅に向かう途中市内には“高岡コロッケ”の文字がかなり目に付くし、私も最近では名物としてよく聞く。ここ高岡は日本有数のコロッケの消費地であると聞いたが、なぜそうなったのかは知らない。(又勉強しておこう。)しばらくて駅の構内に入り、観光パンフレット等をもらった。気がついた事があった。“万葉の里”高岡と所々に書いてある。


『ええっ!』万葉の里”は私が以前勤務したこともし親戚もある“奈良の斑鳩(いかるが)”では無かったのか、駅の外に出ると大きな“人物像”が目に付いた。近くに寄って見るとあの万葉集』で有名な“大伴家持像”であった。そうかここは昔越中国府”(今の県都みたいなもの)が置かれ若き大伴家持(29歳)が国守(今の県知事)として5年間住んだと聞いたことがある。


その間220首近い歌を詠んだことにちなんだもので、市内あちらこちらにゆかりのものがあるのだった。高岡は正直すぐ隣の都市ではあるが、私は今までは通過するばかりで大仏と城跡公園・伝統工芸の銅器ぐらいしかあまり知らないのである。せっかく近くにいい所があっても、意外とそんなものかも知れない。


約束の時間にホテルに行ったが、もう30分待ってくれとの事で仕方なく待った。ようやく面会できたが、先方はすぐに電話が入り席を外す。その事を繰り返し実質のところ、話出来たのはせいぜい3〜4分であった。これもお客様だからしょうがないにしても、時間と費用の無駄使いだ。『何とも疲れた。』

予定もすっかり狂って、夕方近くになるし、次の予定のお客さんの所は又今度出直すことにした。帰ろうとすると前田利家墓所とゆう字が目に入り、今日はついてないし『行ってみるか』と車を向けた。学校の近くに墓所はあった。


墓所は大きな樹で覆われ中にはどでかい“石灯篭”があり驚いた。小さな堀に囲まれた所に加賀藩前田家二代藩主利長”の墓がある。三代藩主利常が造ったものだが利長は武将だ鳴らした初代利家に比べ地味であり、早くここ高岡に隠居したのである。この地高岡では銅器や漆器などの産業を奨励したばかりでなく、城主として町づくりに励んだのである。


藩主として利家なき跡、徳川との狭間の難しい時代に生きた利長についてはいづれ書くが、次に向かったのは、ここから参道のつづく利長の菩提寺、国宝“瑞龍寺である。ちょうど着いた頃少し薄暗くなり、拝観終了の時間であった。「しまった先にここに来るべきだった。」と思いながら門に近づくと、『拝観ですか、今日は終わりましたが、せっかくお越しになったのだからもし良かったら見て行ってください。門は閉めますが、裏出口を教えますから』とお坊さんが親切に言ってくれた。


本当にラッキーだった。誰もいない国宝の境内を無料で(通常500円)ひとり自由に見れるのである。暮れゆく境内はことさら静かである。さすがに鳳凰堂を思わせる左右対称の造り木目がきれいな凝った木造建築など本当にすばらしい。もっとじっくり見たいと思ったが帰り支度を急ぐ担当の人に悪いと思い、しばらくして裏木戸をくぐった。


帰りに日の落ちた池に遊ぶカモ達遠くまでつづく参道のすばらしさを目の前にし、すっかり先はどの心のもやもやはどこかに行ってしまった。本当についてる自分を感じた。高岡の町はいずれゆっくりもう一度訪れたい町である


高岡市の観光HP http://www.city.takaoka.toyama.jp/sangyo/0402/kankou/index.html


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★くつろぎの広場
・五十年、下天は栄え、天が泣き
・井の中の、蛙三匹、違う声
団塊の、老後国中、皺(しわ)だらけ
                                    (ぼけせん川柳)

★歳時記
・春の田に、進んで行くや、山の水  (梅 室)


☆誰もいない一人だけの“国宝瑞龍寺境内” (撮影:3月15日夕)

☆心休まる“瑞龍寺法堂”の内部  (撮影:3月25日夕)

☆どでかい灯篭が目に付く利長墓所  (撮影:3月15日夕)

☆町中に腰をすえる日本三大仏の“高岡大仏” (撮影:3月15日)


☆アーケードが目立つ高岡駅前通り  (撮影;3月25日)

久しぶりの観光ボランティアガイドをして。 104

isikawanokinsan2007-03-14

先輩の地元観光ボランティアガイドの人の急な都合で、今日は久しぶりに午前中ガイドをする事となった。 最近仕事の関係もあり何だか忙しく、先日来地元料理の食べ歩き『山家鍋』のガイドの要請があったが出れなかったので、今日は久しぶりであった。


今日は『百万石ウォーク、鶴来(現白山市)の伝統工芸と蔵元を訪ねて』のガイドである。朝から天気のことが気になり、明るさが増してくる東の空窓から何度かみた。雲はあるものの何とか晴れてはいるが、今日も寒そうである


何時もより少し早く起き、ちょっと散歩しすぐ家に帰り、そして今日のコースを再度おさらいしたが、忘れかかった部分もあったのですぐ調べなおした。今日のお客様は女性が数人、もしかしたらこれに海外の留学生が入るかもしれない。


どのぐらいの歳の人か、どの程度の知識を持ってるかまったく分からない。ましてやいくら日本語が分かってても“外国人”が入るとますますややこしくなる。ガイドする事は本当に難しいと思うようになった。単に知識があるだけでは観光ガイドは出来ない。それをどうお客様に伝え満足してもらうかが重要になる。


幸い私は現役の時は民間企業で営業の部門にういたので、お客さんの難しさはいやと言う程経験した。満足してもらう事がいかに大変な事かであるが、お客さんに満足されてこそ初めて地元のガイドである。これは経験で覚えるしかない。同じことを説明しててもそれぞれの相手に理解してもらえる伝わる言葉で話さなければならないのである。


子供と大人では違うし、性別・年齢・関心のある分野・知識レベルなどいろいろである。今日のようにかなり違った人の混成だと、どのレベルに合わせるのかが難しいのである。しかし事前にまったく情報がない状況では、実践で合わせて行くしかない。


集合場所で待っていると、どうも留学生グループは(5〜6名)今日は別な用事が出来たらしく、日が変更になったようだとの情報が入った。急に気持ちも楽になった。15分くらい遅れて女性だけのグループ のガイドでスタートした。


ここ“鶴来(つゆぎ)の町”は金沢が栄える以前は、門前町として、藩政時代は宿場町として栄え海と山の産物の交換場所とし、昔は市(一六市)も開かれ大変に栄えたの町である。それだけに人口わずかな町なのに、和菓子や10軒をはじめ造り酒屋2軒があり、“醸造産業”もかなり盛んで味噌3軒・醤油3軒・麹(こうじ)屋3軒・酢1軒それに刃物(包丁・のこぎりなど)関係など多くの“伝統工芸品”などがここで作られている。


その他、神社(金剣宮・白山神社)やお寺(鶴来別院など)不動明王そして自然などたくさんの説明ポイントがあり、これを歩きながらガイドするのである。しかしガイドとしてはこれらの箇所を、プラン通りの時間(お客さんの帰りに都合もあるので)で案内する必要がある。トイレや食事なども含めこれも大変大事な事である。


今日は途中少し雪が舞う天気となったが、予定通りガイドを終えることが出来た。考えてみれば私も二時間以上歩いたことになる。自分の健康のためにもなり、ボケ防止でもある。地域貢献にもなるし、しかもたくさんの人と触れ合える。勉強は常にしなくてはならないが定年後はいいのかも知れない。

私の場合はボランティアとは言え、人のために尽くすなどと言う気負った気持ちは無い、何事も自分の為だと思っている。これからも仕事の合間にぼちぼち気長に続けて行きたい。


★全国観光ボランティア連絡会のHP http://www.nihon-kankou.or.jp/vg/vg_kenkyougikai.html

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★くつろぎの広場
・現在地、わからないのが、地図見てる
・本当に、記憶にないなら、ボケ議員
・どう見ても、読めぬ表札、かけている

                   (万能川柳より抜粋)

★歳時記
・垂れ髪に、雪をちりばめ、卒業す  (西東三鬼)



☆ガイドの途中で見た彼岸桜?の開花 (撮影:3月14日)

☆名所での撮影もガイドの大切な仕事 (撮影:3月14日)

大旅行だった江戸時代の参勤交代 103

isikawanokinsan2007-03-13

以前ブログにも書いたが、私は毎日の新聞記事で参考になるものがあれば切り抜き、分野別に分けて自分のファイルをつくっているが、最近何だか忙しい日が続き整理がしてなかった。それでここ2〜3日は夕方から夜にかけてこの作業をしている。今日も整理していると、ふと目に付いた記事があった。


それは金沢市『加賀百万石・百万歩の会』が昔の“参勤交代の道”をたどり、徒歩で全国の主要街道を歩いている記事である。江戸時代はご存知のように各大名や交代寄合の旗本に、原則隔年交代に“春四月”に江戸に出向き、江戸屋敷加賀藩の屋敷は東大の赤門で有名)に住み将軍の指揮下に入る制度の“参勤交代の制度”があった。(三代将軍家光の時の武家諸法度で制定)


この時は大名の石高に応じた人数を、お供に江戸まで連れて行くことが義務付けられていた。ご存知のように加賀藩は百万石”(実質は約120万石)の大大名である。その江戸への行列の規模は大変なものであったらしい。


行列の人数(お供)はおおよそ二千人を数え、二列に歩いたとしても大変な長さである。これを通算百二十回も行ったと言う。金沢から江戸までは約百二十里(約480キロ)これを12泊13日位で歩いたと聞く。計算すれば分かるが一日40キロ弱である。ましてや山道が多く今のように整備された道ではない、それに年寄や女性もいる。車社会に慣れた我々には気の遠くなる旅である。俳人小林一茶も当時『梅鉢の(加賀藩の紋)大提灯や霞から』とゆんだらしい。


当時は“北国下街道”(新潟回り)が主であり、たまに東海道や中仙道経由で歩いた事もあるらしい。それにしても莫大な費用でもあったろう。当時(文化・文政期)は江戸までの旅費は片道一人約7,200文(約10万8千円)の時代である。“参勤交代”には何と一回で5億円位の費用がかかったと言われている。


何と無駄なことをしたのかと思うかも知れないが、それには徳川幕府の全国の大名を統制するしたたかな計算があったのである。行列が通ることにより各宿場には莫大なお金がもたらされ当然商売も盛んに行われた。おのずから宿場町は栄え、そこには働く人、遊ぶ人も大勢集まって来たのである。


しかし一方各大名には大変な資金負担となり、藩の財政は逼迫し、年貢などの過剰な取立てともなった。つまり儲ける人の影には常に犠牲になった人もいると事である。つまりは“商”が繁昌し、“農”が苦しめられた事になる。いつの世も弱者にしわ寄せが来るようだ。 


よく時代劇などでは、行列が通ると農民達みんなが地面に『ははあー』ひれ伏している光景を見るが、これも少しオーバーで、実際長い行列が通り過ぎるまでそんなことしていたら、どれだけ時間がかかるか分からない。みんながそんなことをしていた訳ではないが、それにしても地方分権で当時のお殿様(今で言う県知事)はやはり庶民からすれば雲の上の人だったようだ。


当時の庶民の暮らしがどの程度で、物価は今と比べるとどうであったか知ると面白い。機会が有ればこのブログでも素人の私が知っている範囲で紹介していきたい。


加賀藩前田家の参勤交代を知るHP http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/rekishi03.htm 
★参勤交代のHP http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3

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★くつろぎの広場
・賭け事は、言わぬと言わぬ、勝って来い
・想い出が、強く邪魔して、まだ未婚
・本人が、言うから誰も、信じない
 
                (万能川柳より抜粋)
★歳時記
・うすかりし、春の虹なり、消えにけり  (五十嵐播水)




☆城下を見下ろす天守 (撮影:昨年2月)

女流俳人“加賀の千代女”が生まれたところ。 102

isikawanokinsan2007-03-12

日本のどんな小さい村でも、歴史において一人か二人は必ず全国に名を知らしめた人物はいるものである。 白山市松任(まっとう)には江戸時代、女性俳人として知られる“加賀の千代女”がその代表的である。(千代女一色の町と言っても過言ではない。)


もし分からなければ朝顔や(に)つるべとられて、もらひ水』と代表的な一句言えば思い出す人もいるだろう。しかし本人はこの句があまり好きでなかったらしい。1703年、今からおよそ300年前の江戸時代の中頃赤穂浪士討ち入りの翌年)、加賀の国松任町(今の白山市)の表具師の家の娘(長女)として、冬寒い2月頃に生まれたとある。当時のインテリの素養『読み、書き、そろばん、俳諧だったようだ。(今は『パソコン、外国語、財形』かな?)


小さい頃は金沢の表具屋へ奉公に出たりしたようだが、幼年期からすでに俳諧をたしなむとゆう才能はあったらしい。12才ですでに俳人に手ほどきを受けている。17歳で正式に俳人として認められたようだが、松任の町中には千代女と関連した所が随分多く残されている。


しかしこの女性街中にある銅像やイメージなどからして殆どが小柄でかわいらしい女性であったと伝えられているが、実際は昔としてはかなり背が高い大柄な女性だったとか?? とにかくいつの世でもそうだが、伝承の世界では、有名人は言い伝えられるうちにだんだんある部分が美化されたり誇張されたりで、その内にいつの間にかかなり違ったイメージで伝えられている事が多い。又結婚したかどうかも曖昧であるがどうも夫と死別したと言う説が有力である。 


女性はいつの世でも優しさや美しさ(可愛さ)が対象にされてしまう。だから伝えられる若い女はその殆どが美しいと形容されている。しかし実際は清少納言などは、かなり“いけずな面のある女性”であったとも・・・・さらには女性同士の葛藤もいろいろあったようで人間根本的には今も昔も変わらないのであろう。


今日夕方近く、ここ白山市松任地区に出かけた。駅前の近くにある商店街(八日市町)の“ギャラリー千代堂”で開かれている。古布や着物・帯などで作った“布の掛け軸”展を見るためである。私も表装を習ったいるので大変興味があったし実際に作品を見ると布特有のやわらかさがあり作品としてもユニークであった。


帰り際に店の玄関先小さな石碑があった。見ると“加賀の千代尼(女)の屋敷跡”と書いてある。そうかこの店があるところに昔は住んでいたのか?確かに裏の駐車場の一角に樹がありそこにも俳句が書いてあった。 その近くにはゆかりの寺“聖興寺”には千代尼塚・千代尼堂・草風庵などが境内にある事は知っていたが・・・


ふと街中にある石碑を目にした時、一度改めてみてみるのもいいと思う。ひょっとして歴史上の人物にゆかりの所であるかも知れない。 何かとせわしない世も中、少しでも心にゆとりを持ちたいものである。  (お前は持ちすぎだ! また友の悪口が聞こえてきそう・・・・・) 


千代女についてはまだいろいろ書きたい事はあるが、その内においおい書いてい行く事にしよう。最後に没したのが73歳、当時としては長生きである。 辞世の句 『月を見て、我はこの世を、かしくかな』 このような心境で死にたいものである。


★加賀の千代女の紹介HP  http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/senzin/cuiyojyo.jsp
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3

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★くつろぎの広場
・そう見れば、そうでなくとも、そう見える
・頑固さは、背中と共に、丸くなり
・怖いもの、見せてあげよう、ほら鏡

                  (万能川柳より抜粋)

★歳時記
ふだん着で、ふだんの心、桃の花  (細身綾子)




☆ギャリー千代堂と加賀の千代女屋敷跡の碑 (撮影:3月12日)