大旅行だった江戸時代の参勤交代 103

isikawanokinsan2007-03-13

以前ブログにも書いたが、私は毎日の新聞記事で参考になるものがあれば切り抜き、分野別に分けて自分のファイルをつくっているが、最近何だか忙しい日が続き整理がしてなかった。それでここ2〜3日は夕方から夜にかけてこの作業をしている。今日も整理していると、ふと目に付いた記事があった。


それは金沢市『加賀百万石・百万歩の会』が昔の“参勤交代の道”をたどり、徒歩で全国の主要街道を歩いている記事である。江戸時代はご存知のように各大名や交代寄合の旗本に、原則隔年交代に“春四月”に江戸に出向き、江戸屋敷加賀藩の屋敷は東大の赤門で有名)に住み将軍の指揮下に入る制度の“参勤交代の制度”があった。(三代将軍家光の時の武家諸法度で制定)


この時は大名の石高に応じた人数を、お供に江戸まで連れて行くことが義務付けられていた。ご存知のように加賀藩は百万石”(実質は約120万石)の大大名である。その江戸への行列の規模は大変なものであったらしい。


行列の人数(お供)はおおよそ二千人を数え、二列に歩いたとしても大変な長さである。これを通算百二十回も行ったと言う。金沢から江戸までは約百二十里(約480キロ)これを12泊13日位で歩いたと聞く。計算すれば分かるが一日40キロ弱である。ましてや山道が多く今のように整備された道ではない、それに年寄や女性もいる。車社会に慣れた我々には気の遠くなる旅である。俳人小林一茶も当時『梅鉢の(加賀藩の紋)大提灯や霞から』とゆんだらしい。


当時は“北国下街道”(新潟回り)が主であり、たまに東海道や中仙道経由で歩いた事もあるらしい。それにしても莫大な費用でもあったろう。当時(文化・文政期)は江戸までの旅費は片道一人約7,200文(約10万8千円)の時代である。“参勤交代”には何と一回で5億円位の費用がかかったと言われている。


何と無駄なことをしたのかと思うかも知れないが、それには徳川幕府の全国の大名を統制するしたたかな計算があったのである。行列が通ることにより各宿場には莫大なお金がもたらされ当然商売も盛んに行われた。おのずから宿場町は栄え、そこには働く人、遊ぶ人も大勢集まって来たのである。


しかし一方各大名には大変な資金負担となり、藩の財政は逼迫し、年貢などの過剰な取立てともなった。つまり儲ける人の影には常に犠牲になった人もいると事である。つまりは“商”が繁昌し、“農”が苦しめられた事になる。いつの世も弱者にしわ寄せが来るようだ。 


よく時代劇などでは、行列が通ると農民達みんなが地面に『ははあー』ひれ伏している光景を見るが、これも少しオーバーで、実際長い行列が通り過ぎるまでそんなことしていたら、どれだけ時間がかかるか分からない。みんながそんなことをしていた訳ではないが、それにしても地方分権で当時のお殿様(今で言う県知事)はやはり庶民からすれば雲の上の人だったようだ。


当時の庶民の暮らしがどの程度で、物価は今と比べるとどうであったか知ると面白い。機会が有ればこのブログでも素人の私が知っている範囲で紹介していきたい。


加賀藩前田家の参勤交代を知るHP http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/rekishi03.htm 
★参勤交代のHP http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3

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☆城下を見下ろす天守 (撮影:昨年2月)