女流俳人“加賀の千代女”が生まれたところ。 102

isikawanokinsan2007-03-12

日本のどんな小さい村でも、歴史において一人か二人は必ず全国に名を知らしめた人物はいるものである。 白山市松任(まっとう)には江戸時代、女性俳人として知られる“加賀の千代女”がその代表的である。(千代女一色の町と言っても過言ではない。)


もし分からなければ朝顔や(に)つるべとられて、もらひ水』と代表的な一句言えば思い出す人もいるだろう。しかし本人はこの句があまり好きでなかったらしい。1703年、今からおよそ300年前の江戸時代の中頃赤穂浪士討ち入りの翌年)、加賀の国松任町(今の白山市)の表具師の家の娘(長女)として、冬寒い2月頃に生まれたとある。当時のインテリの素養『読み、書き、そろばん、俳諧だったようだ。(今は『パソコン、外国語、財形』かな?)


小さい頃は金沢の表具屋へ奉公に出たりしたようだが、幼年期からすでに俳諧をたしなむとゆう才能はあったらしい。12才ですでに俳人に手ほどきを受けている。17歳で正式に俳人として認められたようだが、松任の町中には千代女と関連した所が随分多く残されている。


しかしこの女性街中にある銅像やイメージなどからして殆どが小柄でかわいらしい女性であったと伝えられているが、実際は昔としてはかなり背が高い大柄な女性だったとか?? とにかくいつの世でもそうだが、伝承の世界では、有名人は言い伝えられるうちにだんだんある部分が美化されたり誇張されたりで、その内にいつの間にかかなり違ったイメージで伝えられている事が多い。又結婚したかどうかも曖昧であるがどうも夫と死別したと言う説が有力である。 


女性はいつの世でも優しさや美しさ(可愛さ)が対象にされてしまう。だから伝えられる若い女はその殆どが美しいと形容されている。しかし実際は清少納言などは、かなり“いけずな面のある女性”であったとも・・・・さらには女性同士の葛藤もいろいろあったようで人間根本的には今も昔も変わらないのであろう。


今日夕方近く、ここ白山市松任地区に出かけた。駅前の近くにある商店街(八日市町)の“ギャラリー千代堂”で開かれている。古布や着物・帯などで作った“布の掛け軸”展を見るためである。私も表装を習ったいるので大変興味があったし実際に作品を見ると布特有のやわらかさがあり作品としてもユニークであった。


帰り際に店の玄関先小さな石碑があった。見ると“加賀の千代尼(女)の屋敷跡”と書いてある。そうかこの店があるところに昔は住んでいたのか?確かに裏の駐車場の一角に樹がありそこにも俳句が書いてあった。 その近くにはゆかりの寺“聖興寺”には千代尼塚・千代尼堂・草風庵などが境内にある事は知っていたが・・・


ふと街中にある石碑を目にした時、一度改めてみてみるのもいいと思う。ひょっとして歴史上の人物にゆかりの所であるかも知れない。 何かとせわしない世も中、少しでも心にゆとりを持ちたいものである。  (お前は持ちすぎだ! また友の悪口が聞こえてきそう・・・・・) 


千代女についてはまだいろいろ書きたい事はあるが、その内においおい書いてい行く事にしよう。最後に没したのが73歳、当時としては長生きである。 辞世の句 『月を見て、我はこの世を、かしくかな』 このような心境で死にたいものである。


★加賀の千代女の紹介HP  http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/senzin/cuiyojyo.jsp
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3

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★くつろぎの広場
・そう見れば、そうでなくとも、そう見える
・頑固さは、背中と共に、丸くなり
・怖いもの、見せてあげよう、ほら鏡

                  (万能川柳より抜粋)

★歳時記
ふだん着で、ふだんの心、桃の花  (細身綾子)




☆ギャリー千代堂と加賀の千代女屋敷跡の碑 (撮影:3月12日)