日本海の香り漂う、豪商“銭屋五兵衛”の里 62 

isikawanokinsan2007-01-31

石川県で“海の百万石”と言われた『銭屋五兵衛』 の名前を聞いた事がない人は、殆ど少ないだろうと思う。


今日は自身の定期健診と義兄のお見舞いそして少し仕事も兼ね、金沢の海沿いに有る金沢済生会病に行ったが。帰りに金沢市の海に面した“金石(かないわ)” と呼ばれる所に寄り、日本海をちょっと見てきた。昨日とは打って変わって北陸の冬の雲は低く垂れ込め、冷たい浜風が吹き荒れていた。今も金石港(漁港)は有るが、昔はこの辺は“宮腰”と呼ばれ727年(今から1300年前の奈良時代)には“大野湊神社”が創始され、江戸時代には城下町金沢の玄関口として、藩政時代には北前船による興隆で、人や物・文化が往来した大きな港町であったらしい。今も狭い街中(金石・大野)の路地裏を歩くと、古い神社や町家が残り、当時の町人文化の面影を感じられる。何か郷愁を誘う海の香りのするの街である。


金沢西警察署の横に有る“大野湊神社”金沢市指定文化財)の鳥居をくぐり、石灯篭が並ぶ境内に入った。私以外誰も居なかった。樹齢数百年は経つ、うっそうとした社叢の森の中に祠(ほこら)があり大きな船の錨(いかり)が奉納してあった。ぐるっと一回りし、すぐ近くに有る紀伊国屋文左衛門などと並ぶ“豪商”としてこの地では良く知られた銭屋五兵衛、その『銭五の館』 に入った。ここは町中に有った当時の住居をそのまま移転したもので、その後ろにはちょっと見えにくいが大きな“銭五記念館”があり数多くの当時の道具や遺品が並ぶ。当時の北前船を再現した模型もあり、わざわざ私一人の為に、職員の人がビデオも見せてくれたので、かなり楽しめたしよく分った。企画展もしていた。


街中が急に見たくなり、銭五の町“金石・大野(醤油で有名)”の狭い路地を歩いた。金石小学校の横の松林の中にある銭五公園の中にひときは高くそびえ立つ銭屋五兵衛の銅像。最後は藩の謀略により無実の罪をかぶされ投獄非業の死(牢死)をとげた。お家も断絶にあったが、豪商として・文化人として地元に残した功績は大きく、今でもきっと地元の人達の誇りなのだろう。強い冬の浜風を受けながらも、力強く凛々しく立つその像は何かそれが伝わってくる。


昔は陸路で荷物を運ぶより船で運ぶ方が効率がよく質流れ品のおんぼろ船一隻を買い、そこから最盛期には大小200隻の船を持ち、金沢の港(宮腰)より遠く北海道・東北・九州・大阪・関東など全国を股にかけ、そして海外(当時は鎖国中で密貿易に当たる) まで北前船で貿易をしたらしい。 一方、潟(河北潟)の埋め立てによる、地域振興を図ろうともし。最後は出る杭は打たれる事となった。何事も新しい事に取り組む事は勇気(チャレンジ精神)もいるし、実力(能力)も運も必要だ。(今の世も同じである。)


☆石川県銭屋五兵衛の館HP http://www1.ocn.ne.jp/~zenigo/


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★一口メモ
【銭屋五兵衛】江戸時代後期の加賀藩を代表する豪商、両替商・古着屋商から北前船主となり、当時の加賀藩年寄奥村栄実(てるざね)らによる天保の改革で、藩の御用商人となり改革を手伝い、米の大阪廻船など広く貿易し繁栄したが、後ろ盾の奥村が死去してからは銭屋は周囲からねたまれ、推進していた河北潟埋め立て新田開発中に大量の魚鳥が変死、毒流しを疑われ、一族すべて逮捕される一大疑獄事件に発展し、五兵衛は獄死、一族は死罪などの厳罰により銭屋の財産はすべて藩に没収された。一説には、藩と結託した海外密貿易が幕府にばれるのを封じた為とも言われるが、明確な根拠はないようだ。


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★くつろぎの広場
・悪ガキに、効く良薬は、貧乏だ
・井の中で、インターネット、する蛙(かえる)
・高齢化、しかし大人は、いない国
             
          (ぼけせん川柳ベスト100より)
★歳時記
・納豆に、あたたかき飯を、運びけり  (村上鬼城



☆豪商の非業の死を伝える“銭屋五兵衛の館と記念館” (撮影:1月31日午前) 

☆荒れる冬の日本海 (撮影:1月31日昼)

☆大野湊神社に有る昔の北前船の港を伝える奉納された錨 (撮影1月31日午前)