薬の街、越中富山をたずねて。 43

isikawanokinsan2007-01-12

『今年、雪降らんもんで、足元ようて助かるがいね。ほんでも、今年どうなっとるがかねぇー。ホントに、こんな雪降らん年も珍しいがでないがかねぇー』
最近は北陸でよく聞かれる会話である。確かに今日も気温4℃で雨が降ったりやんだり、かと思うと時々晴れる北陸の天気。雪は気温が3℃以下でないと雪に変わらない。わずか1〜2℃の違いで雪になるか雨になるか大きく異なる。
従って最近言われる地球温暖化はじわじわと進んでいるのだろう。昨年『県自然保護センター』 の人から聞いたが“白山の万年雪”(千蛇ヶ池)を何十年も観察しているが、年々確実に少なくなっているとの事である。



今日は富山市で仕事を終えた後、ふと『富山』と言えば“薬売り”が昔から有名であるが、いったいいつ頃からそうなったのか知りたくて、帰り道でそれを調べる為少しばかり寄り道をした。
富山駅から立山山麓に向かって市電が走っている。(富山市内の道は金沢と比べ戦後作られたのでゆったりと広い) 駅から車でその道を10分ほどで『梅沢町』 と呼ぶところについた。ここに『薬の広貫堂』の工場と“薬博物館”があった。(このあたりは、お寺も多いが薬の店が多い。) 近くまで行くと見学者入口があったので、中に入った。
博物館の中は私以外誰もいない。そう言えばこんな時期、観光ツアーか工場見学ならいざ知らず、よっぽど暇人しか来ないだうと思いながら、さほど広くはない奥に進んだ。
受付の女性がにこにこしながら親切にいろいろ説明してくれり、ビデオを見せたりしてくれた。


あるある懐かしいものばかりを一杯詰め込んだ“柳こおり”を背中に重ね、世間話をしながら、家々にある置き薬をチェックし使った分の薬を補充していく。そしてこの後子供には紙風船などのお土産を置いて行く。
当時子供だった私は、これが待ちどうしくて、薬売りの人がくるのがとてもうれしかった思い出が有る。この当時のものはすべて保存されてあった。


富山の薬が全国的に有名になったのは、元禄3年(今から約300年以上前江戸城内で突然腹痛を起こした大名(福島県三春藩主)を富山二代藩主、前田正甫公が持っていた薬 『反魂丹』(はんこんたん)を差し出し、これを救った事から、一躍大名の間で有名になり。地元でこれを作らせ奨励したのが始まりだとか。明治以後は幾多の困難を経ながらも辛抱強くこれを守り、今日の富山の薬はある。


私は『置き薬』のシステムと全国にこれを売り歩き、足で当時の庶民の情報伝達・収集の役目も果たした富山県は、有る意味“現代版情報化社会”の原型と言えると思う。富山県人は一般的に、家はものすごく広いが質素堅実で働き者が多く“嫁を取るなら越中娘”とまでいわれ、今でも生活は堅実日本の暮らしランキングの常にベスト3位以内に入る。
又商売上手でもある。石川県の商売は富山県出身者の人が断然多い、我が石川県人はいつも加賀百万石を自慢し、おっとりお高くとまるところがあり、(今のあんたたちが、偉いわけじゃない!) この商売上手な富山の人を、今でも年寄りの人は、多少皮肉を込めて越中さ』と呼ぶ場合がある。 (まるで江戸時代の士農工商だ)

最近特に感じるのだが、同じ北陸でも富山・石川・福井の気質・風土はかなり違うのが面白い、このように無意識のうちに我々は未だに歴史を引きづって生きているのだ。
(いずれ北陸3県人の違いは、詳しく書きます。)

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★くつろぎの広場
・揚げ足を、妻と取り合う、ボケ防止
・ゆとりなど、ないから仲の、良い夫婦
・幸せな、夫婦長短、五分と五分
                                      (男と女の辛口川柳より)
★歳時記
・ほんのりと、峰より峰の、冬の雲   (惟 然)


 
富山市内の近代的なビルとスマートな市電 (撮影:1月12日午後)

 
☆“広貫堂薬博物館”となつかしの展示売薬の品々 (撮影:1月12日午後)