忘れられた内灘砂丘の歴史と医王山系の山々 21

isikawanokinsan2006-12-21

朝テレビで青島幸男の死を知った。漫才作家でデビューし、直木賞作家、タレント、東京都知事、そして参議院議員と、その肩の張らない庶民性・ユニークさ好きな有名人の一人であった。
今日は朝早く家を出て、金沢市の北に位置し能登への入り口かほく市の実家へと向かった。
今年夏亡くなった老母が、この時期になるといつも子供たち(私たち兄弟)に地元で取れた“長芋”をくれていたが、今年は母に変わって兄嫁から電話が有り、車で取りに行った。
この辺は内灘砂丘(以前は鳥取九十九里浜と並ぶ日本三大砂丘といわれた。)からなぎさドライブウエーで有名な千里浜へと続く砂丘日本海に沈む夕日がとてもきれいでもある。昔は魚業が盛んであったが、その他にこの砂丘地で採れる“芋”はとてもおいしい。この辺は、昔は前田のお殿様もわざわざ金沢からお供を連れ、桃の花見に来たとも聞く。(古文書にも有り)

実家の玄関を入ると、ぷーんと漬けも物の臭いが鼻をつく、この時期はきっとお正月用の“大根寿司”だろう、(私は昨年作り方をここで習った。)
呼んだが返事がないので背戸(裏口)へまわった。
冬の日本海がすぐそこに見える。ここで小さい頃は、裸足のままで家から浜に行ったもんだ、チャンバラしたり、竹スキーしたり日の暮れるまで遊んだ。ガキ大将もいた。喧嘩もしたし泣かされたが、今のような“いじめ”はなかったような気がする。『弱い者をいじめるやつは、男ではない!男は泣くな!』 あの当時よく聞かされた言葉だ、今思えばみごとな『武士道の精神』・・・・
仕事も有るのですぐ金沢へと引き返した。
海岸線ぎりぎりを走る能登海浜有料道路と平行に走る県道を通った。砂丘地にニセアカシアの林が続く、しかしこの辺りは戦後まもなく(昭和27年)米軍の試射場をめぐり、激しい闘争が行われたところだ。(私は小学校に入った頃で、かすかに記憶に残る。)
しかし地元でも今はそれを語る人は少ない。(政治的な面は有るが、歴史の事実として後世に語り継いでほしい。)
今まで気づかなかったが、この小高い砂丘の丘からの遠望は本当にすばらしい。
はるか遠くに白山から連なる医王山(昔、薬草と修験者の山)の山々が続き、能登の主峰宝達山(昔、金などが採掘された山)へと連なる。右下には城下町金沢の町並み、真下には豊富に水をたたえた冬の河北潟が見渡せる。180度のパノラマ写真を見ているようだ。これまで気づかなかった『ふるさとの絶景』だ!冬のどんより曇った空から、わずかに薄日が漏れる、雪をかぶった遠くの医王山がスポットライトを浴びたようにきらきら光る。
シャッターチャンス思わずカメラを向けたが、すじ状にさす冬の弱い光は一瞬にして雲に隠れた。しょうがない又来るか、まもなく内灘大橋から金沢医科大の白くそびえ立った建物が近づいてきた。

出来れば、西田幾多郎記念館へと続くこの街道を、“パノラマ街道”と位置づけ整備し、“凧(凧の祭典は知られている)と砂丘の資料館”を併設した“大露天風呂”(今は小さな温泉がある)や遊歩道などをつくり“癒しの場”を全国発信して見たらどうだろうか、(参考までだが、旧鳥越村は村の悲惨な歴史を残すと同時に“蕎麦と一揆の里”として今や良く知られるようになった。)

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★一口メモ
内灘闘争:昭和25年突然朝鮮戦争が勃発し、日本はアメリカの戦後の冷戦体制に引き込まれた。日本各地で米軍の基地が築かれ、朝鮮半島をにらむ、ここ内灘は砲弾の米軍試射場としての接収が始り、地元住民だけでなく県民、さらには全国的な反基地闘争が行われ日本での基地闘争の象徴的先駆けとなる。
権現森で、命を懸けてのむしろ旗を立てての座り込み等で抵抗、全国で内灘に続け』の機運が高まった。その後政府から漁業補償金が提示され,村は意見が分かれ二分された。その後村民も職業を変えたりし、大学も進出したり、村の景観もがらっと変った。今、内灘町金沢のベッドタウンとして発展している。

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★くつろぎの広場
・ボーナス日、裏を返せば、返済日
・仕事やれ、人に言わずに、お前やれ
所得税、所得増えずに、なぜ増える

           (某企業サラリーマン川柳入選作より)

★歳時記
・浜小屋の、ひとつ眠れり、十二月  (加藤憲曠)



内灘砂丘から見る、河北潟と冬雲にかすむ樹下町金沢(撮影:12月21日)


☆雲の晴れ間に覗く、雪の医王山系(撮影:12月21日)