裏通りに息づく、加賀百万石の文化 15

isikawanokinsan2006-12-15

金沢は、よく北陸の小京都と言われれる。
しかし私は少し違うと思う古い町並みが残る点はよく似てるが、よく見ると何かが違う、関西(大阪)に住んでた頃、よく京都にも行った。
古い町並みや文化遺産があちらこちらで見られ、落ち着いた風情ある私の好きな都市でもあった。永きにわたり日本の中心として栄え、上品な当時の公家文化がしのばれ、また金閣銀閣で見られるように落ち着きの中にきらびやかさが感じられる。
一方金沢は加賀百万石(実質は120万石はあったといわれている。)の城下町ではあるが、当時大きいが故に、外様大名として幕府から常に警戒され、いつ取り潰しや攻められるか分からない状態がつづいた。
その時に備金沢の町には、数多くの工夫(仕掛け)がなされ、隠されている。
一方で
幕府に敵意がないことを証明するため、文化を奨励し、保護した。これが雪国の風土と相まって、独特な伝統工芸や文化が造られ、今に伝えられている。
私は、“槍の又左”と言われ戦に明け暮れた前田利家加賀藩初代藩主)を支え、加賀百万石基礎を築き文化を広め、それを守ったのは実質、お松(利家の正室、まつ、後の芳春院)さんだと思っている。
金沢の町戦災にあわず、昔のままの曲がりくねった狭い道路が多い、近代化のため道路の拡張が多く行われ、幹線道路沿いはどこにでもある近代的なビルに覆われているが、すぐ裏通りには今も奥ゆかしい文化がひそかに息づく歩いて隠されたもの探すのが、金沢の本当の魅力であり、昔を知ることになると思う。
今日は用事で、金沢の繁華街に出た。
少し混雑してたので犀川の近くで車を置き、裏通りを歩くことにした。
川のほとりに近づくと、車の音にまぎれてどこからか小太鼓を打つような音が聞こえた。そう言えばこの辺りは、西茶屋街(最近整備され復活)が近いし、この犀川沿いは高級柳亭が軒を並べる
橋を渡り裏通りを片町から香林坊へと向かった。ついでに 香林坊ビル街のすぐ裏手にある長町武家屋敷界隈を歩いてみた。
冬支度の塀を『こも』で覆ってあり冬の金沢の風情を感じる
少し行くと、中国人?(韓国人)とおぼしき団体さんがなにやら武家屋敷の門の前で庭を覗きながら、何か大声で話し合っている。どうも庭の雪吊りが珍しいらしい、こんな時少しでも語学が出来たならと思う。(語学はまるっきりダメ)
香林坊の交差点から道路を横断し反対側を歩いた。
若者の町ファッションの町竪町通りだ。若い人が殆どで、歩くのに抵抗を感じる。(このときだけは自分の歳を思う、俺もオジンか・・・・)
いつしか冬の夕暮れがせまり、繁華街のネオンが明かりを増した。

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★一口メモ
香林坊(こうりんぼう):片町と並ぶ金沢市の繁華街、変わった名の由来は諸説あり定かでないが、その昔、高野山の宿坊がこの辺りに在ったともいわれ、又比叡山の僧香林坊がここに住んでいたとも言われる。広坂通りと交差する北国街道の要所で、すぐ裏には犀川から取り入れた用水が流れ、長町武家屋敷界隈がある城下町金沢がしのばれ、全国的にも知られる所。
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★歳時記
・口に袖、あてゝ行く人、冬めける。高浜虚子


☆長町武家屋敷界隈と屋敷門(撮影:12月14日夕)

☆用水と長町武家屋敷の土塀(撮影:12月14日夕)